インタビューNo.4 世界を飛び回る視覚障がいの鍼灸師さん

生まれた時から強度の弱視という視覚障がいを持った、明朗な鍼灸師の内田直子さん。目が見えにくいと針は危ないのでは?と尋ねると「それは逆で、見える人が針を打つの?」といいます。全盲のご主人とご結婚し夫婦で治療院を経営、双子のお子さんを立派に育てあげたお話などをうかがいました。

内田さんの視覚障がいについて教えてください—

私は先天白内障と小眼球をもって生まれたんです。今の左目は生まれたままの状態ですが、眼球振盪があって視力は0.02の弱視です。右目は赤ちゃんの頃は0.3くらいあったのですが、続発性緑内障を起こして20歳のときに光覚だけに。過去に5回ほど手術したのですが、結局いい方の右目を悪くしちゃいました。緑内障なので眼圧が上がって目が痛くなり、ボコッとして見た目が結構な感じになっちゃったので、先生が女の子だしかわいそうだからと、眼球を取らないで義眼を被せてくれました。目に関してはコンプレックスありありで青春時代を過ごしたんですよ。美容整形とかもあったんでしょうけど、ま、この顔で行くか!と。

どのような子供時代だったのですか?—

何度も手術したけど結局完全な視覚障がい者になっちゃった。母が地元の幼稚園と小学校に入れたいと駆けずり回ってがんばってくれて、近所の子といっしょに普通の学校に通いました。小学校では、教科書や黒板は見えなかったし、高学年になると板書もできなくなりました。母が手書きの拡大教科書を作ってくれました。高学年になり字数も多くなると母も追いつかなくなって、専門のボランティア団体に手伝っていただきました。九州の方から、きれいな墨字で書いた拡大教科書のコピーを譲ってもらったんです。A4サイズの、私にぴったりな文字の大きさだったんです。母はいろんなルートで、そういうのを探してくれました。一つの教科書を4分割したもので、1冊が3センチくらいの厚さ。私は重いランドセルを背負っていたんですね。親になって思うんですが、私がぜったいできないようなことを母はやってくれていたんだとわかって感謝しかないです。

小学校のお友だちとの関わりはどうでしたか?—

手助けはいっぱいあったんですけど、それが嫌だったんですよね。とにかく私は一人でやりたい、普通になりたいって思っていましたから。5年生くらいから、友達がノートをとってくれたりするのがとても嫌で…。ひねくれた小学生だったかも(笑)。非難したり、からかったり、いじめたりする子は誰もいなかったんですが、すごく孤立していました。その年頃って、人と違うということが嫌に感じる時期なんでしょうね。それに目が痛くて開けられなくなってきたこともあり、学校に行きたくなかった。差もどんどん開いちゃうし、5,6年生の時にいろんな意味で限界を感じて2/3くらい不登校でした。みんなと同じ学校に行っても自分は学力も人と違うしと。母から、「東京に、全国から集まってきて、卒業後も社会で活躍されている方が多くいる盲学校があるの。そこに行けば大学に進めるわよ!」。「じゃあ、そこに行きたい、行こう!」と。盲学校に行けば私たちが標準になって黒板に字を書かれることもない、それはいい!って思ったんです。受験でしたので、1年かけて遅れた分をすごく勉強して、国立の筑波大学付属盲学校に行きました。

通学はどのようにしたのですか?—

寮を希望したのですが空きがなく、あなたくらいの視力なら自宅から通ってと言われて。ですが、1学期の間だけ、学校に慣れるために3人用の部屋を4人で使った寮生活をしました。その後は片道1時間半かけての電車通学。年頃だったし、かっこつけて白杖なしで通ってましたね。階段を駆け上がり、駆け込み乗車をし、空いている席があればパっと座っていましたよ。

進路をどう考えていましたか?—

母が望んだ大学には進まずに、高専の鍼灸科を選びました。高2くらいまでは大学進学も考えていましたが、このまま大学に行ってOLさんになっても私って何にもないなと。勉強して国家資格の免許をもらえるんだったら、針の資格を取ろうと思ったんです。母は私が大学に行くことを目指して一生懸命支えてくれたし、国立大学に進んだ先輩もいるような盲学校だったし、もっと上を目指して視覚障がい者として社会で活躍できるような、そんな教育をずっと受けてきましたから、「なんで鍼灸師なの?鍼灸師さんになるの?」と母から。「そうだよ、何がわるいの?」といっぱい喧嘩しましたね。
最初は企業のヘルスキーパーとして働いていたんですよ。 鍼灸師になって大企業で働きたい、丸の内に通えるわ!と憧れを持っていたのと、母を安心にさせたいとも思っていましたので。

見えないのに針が打てるってすごいなと思いましたが?—

それは全く逆なんです。私たちから言わせると、目が見える人が針を刺せるの?うーん、触ってわかるのかね?って感じ。私たちは日常的に全部さわって解決しているので。それを主人から教わったんです。主人はここの院長なんですけど、彼は全盲で、鍼灸師のご両親も、兄弟も全員視覚障がい者の5人家族。私も最初は、みなさんが驚かれるように、見えないのに針打てるの?って思っていましたよ。本当に鍼灸でやっていけるのか、でも鍼灸は視覚障がい者のための仕事なんだから大丈夫よ…と思いつつも不安で悩んでいたときに、主人から、鍼灸師としての考え方、視覚障がい者としてこれからどう生きていけばいいのかなどの考え方を教わって、目からうろこでした。目が見える人の触覚は私たちが足で触って得る感覚のようなものかもしれなくて、触覚が全然ちがうんだから、自信を持ちなさいと。確かに、私たちは点字を読んだり、コインを読んだりしてますからね。

感覚については優れていると感じますか?—

感覚の鋭さは視覚障がい者でも分かれるんですよ。点字を読むのがすごい早い子がいる一方でそうでない子もいます。以前、母と姉と京都旅行をしたときに、石と石の間を目をつぶって歩ければ願いが成就するという場所に行ったんです。母と姉はうまくできなかったけど、私だけがまっすぐ歩いてたどり着けた。初めての場所でしたが、距離感や方向がわかったんです。空間認知というのでしょうか。これは鍛えれば備わる感覚だと思いますよ。主人はそれがずば抜けていました。全盲ですが、結婚当初は彼のリードで駅の階段を駆け上がり、ホームを走って、電車に駆け込んだりしていました。今はだいぶ鈍りましたけどね。

白杖を持って外出されるのですか?—

若いころは白杖を持って歩くのが嫌で、なしだったのです。でも、主人に持てと怒られました。「あたたは捻挫くらいで済むけど、周りは大変ご迷惑ですよ。白杖を持っていれば、視覚障がい者とわかるし、側を通る車とかが気を付けられるでしょ」と。いまは持たないと怖くて歩けないですね。

外出先で手助けしてくれる方はいますか?—

病院など初めての場所に行くときはガイドヘルパーさんにお願いをしています。若い時はお世話になるなんてって思っていたけど、今は違います。大きな駅で出口がわからずウロウロしていると、みなさん声かけてくださいますね。困っているときはうれしいです。逆に、普通に歩いているときや困ってなさそうなときは大丈夫なんです。例えば信号で「変わりましたよ」って突然言われるとビクっとしちゃうんです。慣れている道順なら大丈夫なんですが、とっさに来られるとびっくりしちゃうので。これは私たちがもっと発信すべきことなのかもしれません。障がいがあるんだから何か手助けをという好意に対し、「ありがとうございます、いまは大丈夫です」って笑顔で言うようにしています。最近の教育のおかげなのか、子どもたちがよく声を掛けてくれます。うれしいですね。声を掛けやすい障がい者がいっぱいいたら、声を掛けやすい社会になるんだろうな。電車で席を譲られたら座ろうと思っています。

立派に双子のお子さんを育てられましたね—

母やホームヘルパーさん、学生ボランティアさん、近所の方に手伝ってもらいながら、ベタベタ触って育てました。ヘルパーさんは、子供の面倒見は対象外なのですが、やっていただいてました。抱っこしてあやしてもらったり、おむつ替えの手伝いをしてもらったこともありま した。本来ならシッターさんを雇えってことになるんですが、とても無理です。双子でしたので、特に離乳食の時期が大変でした。主人はそのころ企業と契約してパラ陸上をやっていたので、遠征が多く留守がちでした。アジア大会が決まったときは3週間もいなくて…。3歳までは大変でしたが、小中学校では、子供たちのお友達、お母さんたち、先生たちに恵まれましたね。

主人の教育方針が、塾代を払うくらいなら経験に使おうというものだったんです。経験・体験が財産だと。家族4人でけっこう海外に行ってるんですよ。オーストラリア、シンガポール、ドイツ、バリ島など、毎年どこかに。子供たちが5歳のときは、主人の試合をオランダまで見に行ったんです。主人は全盲だけど海外大好き人間で、今でも年に2回くらい行くんです。シンガポールの地下鉄では、目的地と切符の買い方を駅員さんに聞くと、駅員さんは子供たちに「パパ達に言うんだよ、OK、チルドレン?」と教えてくれる。目の不自由な親2人と一緒の海外だから、子供たちはしっかりしてくる。経験ばかりさせてましたね。子供たちは言わないけど、いま大きくなって、私たちと一緒じゃないとこんなにスムーズに行けるんだねって、思っているかも(笑)。いろんなものを見たり経験したり、たくさんの人たちに育てられ関わった分、おかげさまで良い子に育ってくれたと思っています。

見えないことで壁はありましたか?—

いま振り返ってみると、目が見えなくて子育てができないってことはないし、差別や好奇の対象になることもなかったですね。「バリ島行ってんの?目が見えないとか言ってなかったっけ?」と逆に変な目で見られてたかもしれません(笑)。

同じ視覚障がいの方に一言お願いします—

私はかなりの弱視ですが、ここからさらに視力を奪われたら困るし、外に出ていく自信がなくなるかもしれない。見えなくなるってそれくらい大変なことで、一歩踏み出せないのは当たり前なんです。でも、一緒に出てくれる人がいたら踏み出すべきで、見えなくても工夫をすれば大抵のことができる。仕事も結婚も子育ても、ショッピングも海外旅行も、なんだってできる。あとはやるかやらないかなんですよね。私はこの視力でずっと変わらないから、この状態が普通なんですけど、私たちが針を打って、海外旅行行ってなんて言うと、晴眼者の多くの方が「えー!そうなんだ!」って思うことが今日わかりました。視覚障がい者が太平洋横断に成功した、弁護士になったというニュースを聞いて、自分にはできないって思わずに、チャンスはあるんだよってたくさんの人に知ってほしい。インターネットもツイッターもFBも音声機能があるので、かなりできます。できるという情報があれば今までどおりだし、なんだってできます。

貴重なお話をありがとうございました—