木下財団について

「設立趣意」 支援を必要とする人を助けたい、という想いからスタートしました。

民生の安定

敗戦の焦土の中、木下財団創設者の木下茂 氏は直筆の設立趣意書で次のように記しています。「戦後、日本が再興する途は私たち自身の持つ能力と復興しようとする意欲でもって経済力の充実と民生の安定を図るしかない」

木下茂 氏は、鉄鋼問屋として㈱木下産商を創業し、戦後、クギ・トタン類を取り扱うなどして業績を拡大させ、木下商店を日本最大級の鉄鉱石輸入商社として急成長させました。

その後、木下商店は昭和40年に三井物産に吸収合併されることになるのですが、木下茂氏が常に想い描いていた、戦後日本の復興のための「経済の充実」という想いについては、木下産商を通じて達成できたのかもしれません。経済の発展に尽力してきた木下茂 氏ですが、一方で民生の安定についても全く忘れていたわけではなく、折があれば一奮起したいと念願していたようです。

そんな時に、縁あって知り合った新生会病院から、「新生会病院を木下氏の力で立て直してほしい」と要請されました。それがきっかけとなり、社会福祉法人木下財団は設立されました。

当時の新生会病院は、深川の埋立地で慈善病院として活動していましたが、経営的に困難な状況に陥っていました。その頃は戦地からの引揚者や戦争孤児が多かった時代であり、そして新生会病院のあった江東デルタ地帯は、要保護世帯または要保護すれすれのボーダーラインの人々が数多く生活している場所でした。そんな地理的背景があったため保護更正施設も東京都内で最も多かったのですが、この地区には医療機関が乏しく、新生会病院が唯一の病院であったのです。

その病院が困難に陥っている—–。

木下茂 氏がつねに懐いていた「民生の安定」のためにという想いと合致した瞬間だったのでしょう。木下茂 氏のことばに「貧しい人々の保健と治療に奉仕してきた病院を福祉法人にして更に更に福祉事業に邁進させることは、私が平常懐いてきた民生の主旨を実現させるものと認識いたしました」とあります。

支援を必要とする人のために

木下財団のはじまりは、社会福祉法人木下財団豊洲厚生病院でした。その後、昭和56年7月から方針を社会福祉法第2条3の助成事業へ転換し、現在に至っています。

「世界から貧困と疾病と無気力を及ぶ限り除しようとするものであります」

木下茂 氏の設立趣意書の最後の一文です。

木下財団は、木下茂 氏の理念を継承し、設立から59年経過した今もなお、障がいをもった方々の福祉のために助成事業を続けています。これからも、国の援助の対象とならない小規模な施設に対して、民間の助成財団だからこそできる柔軟で迅速な支援を続けてまいります。

木下茂 氏の設立趣意書です。途中、訂正線が引いてあるなど荒削りのところがありますが、想いがそのまま伝わる味のある文ですので、あえて修正を加えずそのまま紹介いたします。不適切と思われる用語も含まれておりますが、故人木下茂 氏の財団設立に対する真摯な気持ちを明確に伝えるため原文を掲載させていただいております。読みにくい場合はこちらをご覧ください。