社会福祉法人木下財團設立趣意書

敗戦の焦土の中で(私はこう考えました。今まで私等が生活の後楯として来た神話の権威も軍部の権力も無くなってしまったのだから)、これからの私等を護り、且つ日本を復興させるものが若し何かあるとするならば、それは私等自身の能力と私等自身が復興しようとする意欲を措いて他にはないと考えました。そして私等夫々が自立出来、その上日本が再興する途は経済力の充実と民生の安定以外には求めることが出来ないと。

そこで私は経済力の発展に重点を置いてKK木下商店を主宰して今日に至りましたが、然し一方の民生の安定についても全く忘れていた訳ではなく、折があれば一奮発いたしたいと念願して参りました。

偶々私の会社が或る商事会社の整理再建をしていた過程で、深川の埋立地で所謂慈善病院の仕事に精進している新生会病院のことを知り、私と密接不可分の縁が生じました。

この新生会病院は昭和二十八年以来第二種福祉事業に従事して(昭和三十二年六月十日附東京都受理書第一三一号)来ていましたが、厚生省告示(昭和三十二年八月二十七日附第五六〇号)に添って社会福祉法人として、尚一層福祉事業に専念しようと折角努力していました。しかし不測の障碍が出て来て遺憾乍ら意余って力足らず、ほとほと困憊しておりました。私と縁が出来てからここに一層の活路を見出して、私に病院を私の力で福祉法人にして欲しいと要請して来ました。(昭和三十四年五月九日並びに十一月十七日附社団法人新生会臨時総会議事録)

そもそもこの病院は江東デルタ地帯の南端、豊洲に位置して、周辺は地理的、社会的条件から要保護世帯或いは要保護すれすれのボーダーラインの人々が数多く生活しており、従って東京都或いはその委託に係る保護更正施設も都内で此の地域が最も多く、江東寮、第二江東寮、みかえり汐﨑荘、浜園寮、新幸ホーム、日の出荘、平和荘、枝川町朝鮮人部落、塩崎町バタヤ部落等々枚挙に暇がありません。その上、この地域には医療機関が乏しく、病院としては新生会病院が唯一の存在であります。

この蝟集する貧しい人々の保健と治療に奉仕して来た病院を福祉法人にして更に更に福祉事業に邁進させることは、私が平常懐いて来た民生の主旨を実現させるものと認識いたしました。そこで同志を紏合、協議の結果、経営陣、技術陣を協力に充実させ設備とサービスの改善を計って、名称も社会福祉法人木下財団豊洲中央病院並びに晴美診療所と改桷の上、本来の目的達成に専念させようと、ここに社会福祉法人設立に踏み切った次第でございます。

尚、当木下財団は前記病院並に診療所の設置経営のみで満足するものでは無く、これを基盤として国内各地はもとより、必要あれば海外諸国に於いても各種医療施設並びに育英施設、更正施設を設置経営して、世界から貧困と傷疾と無気力を及ぶ限り除しようとするものであります。

昭和三十五年二月十日

社会福祉法人木下財団設立準備会

代表発起人 木下茂